Topics・甲子園
2011/03/31
甲子園で直接応援した仲間からの観戦記や、自宅テレビ観戦者からのコメントをご紹介します。
3月25日(金)の日刊スポーツ新聞ニュース
<田村 徹>
俺 の 甲 子 園
“旧制中学から続く、歴史と伝統に輝く公立高等学校で、未だに甲子園に出たことが無い高校は、全国に何校あるだろう”、なんて言う奴がいると、いつも蹴飛ばしたくなったものだ。
ところが我が母校、大館鳳鳴高校にもやっとその時がやって来たのだ。
昨年の9月、母の面倒を看るため冬の間4ヶ月、4年連続で大館に帰っていた時に、口ではいえない程お世話になった同期の仲間たちと旧交を温めるために帰郷した時のことだ。
仲間の一人である平泉勝也が「鳳鳴の今シーズンの最後の試合を観に行こう」と誘ってくれた。「最後ってどういうことだ?」と聞くと、「県の秋季大会の県北大会だ。鳳鳴はもう一回戦で負けて、今日が敗者復活戦だ。相手は今年夏の甲子園に行った能代工業だ。これに負けると鳳鳴の今シーズンは終わるのだ」。「勝てばどうなる?」
「県大会に出る、そこで勝てば東北大会に出る、そこで決勝まで行けば、春の選抜大会で甲子園に行ける」「ケ、ケ、ケ、一回戦で負けたのだろう、お前は極楽トンボだな」。
もう一人斉藤尭も誘って三人で比内の“達子の森球場“に行った。スタンドに行ったら浪岡(栗盛)武彦も来ていた。
試合が始まった。一回の裏、いきなり2ランホームランを打たれた。「帰ろうか」「まだまだ、これからだよ」。こんな会話をしていたら、途中で様子が変わってきた。なんと逆転勝ちしてしまったのだ。
「よし、甲子園への道、第一歩を踏み出した」
それから帰京した俺に勝也から電話が入った。「県大会で優勝したぞ、第二歩も乗り越えた、あとは東北大会だ。青森山田高校と当たる、山形まで応援に行ってくる」。
また、しばらく経ったある日、また勝也から電話だ。「負けた、4-3だ、もうちょっとだったがなぁ、甲子園も第三歩目で終わった」。
そしたら年末にまた勝也から電話だ。「おい、21世紀枠の東北代表に選ばれた、今度は絶対大丈夫だ、前回は北朝鮮に負けたようなもんだからな」。
俺も今度ばかりは本気になった、ひょっとしたらひょっとするぞ!!
年が明けた1月28日、またしても勝也から「決まった、決まった甲子園だ!」と電話が入った。将に夢が叶ったのだ。いよいよ甲子園、131年目の快挙だ!
ところが3月11日、とんでもないことが起こった。“東北関東大震災”だ。今までに誰もが経験したことがない、大惨事なんてものじゃない。なんでこんな目出度い年にこんなことが起こるんだ、ちくしょう、負けてたまるか。頑張るぞ!
3月15日、斉藤尭から電話がきた。「二日目の第一試合で天理高校とやることになった、24日だ。但し、18日に高野連がやるか止めるかを決めるそうだ。やると決まったら俺たち大館の仲間は西村、浪岡、勝也と4人で前日から行く。お前も俺たちと同じホテルを取れ、前夜祭を道頓堀でやろう」。
「こんな日本が大変な時になにが甲子園よ、非国民!」などと、女房や娘にののしられ「頼む、行かしてくれ」と拝んでいたら、息子が「親父の一生一度の夢なんだから行かせてやれよ」の一言で救われた、さすが俺の息子は男の気持がわかるいい奴だ。
23日、大館の連中は夜行寝台特急「日本海」で前夜から団体を組んで乗り込んでいて、すでに車中で前前夜祭をやっているというメールがきていた。新幹線で大阪に向かっているところにまたメールが来た。「京都で降りろ、鈴木久雄の家に行くことになった。お前も来い」。京都で降りて司令に従い地下鉄「五条」で落合い、鈴木の家に行ったら新潟の奥山がいた。
鈴木は奥さんが沖縄に行っているというのに、自分で作った料理で大歓待してくれた。ありがたいことだ。午後の3時ごろから5時間ぐらいカラオケをやったり鳳鳴校歌を歌ったり大騒ぎをして大阪の十三のホテルに帰ったのが12時近かった。
いよいよ試合当日、朝5時に起きて昨夜の深酒を朝風呂で抜いて、7時に大館の団体さんと一緒に甲子園に向かった。
俺は甲子園は初めてだ。多分初めての人がほとんどだと思う。
一塁側の応援スタンドに行ったらすでに14期の仲間が一杯、ひとかたまりになっている。全員と握手をして健闘を祈る。
いよいよ試合開始だ。鳳鳴の選手たちがグランドに飛び出していく。50年前の栗森、伊藤昭郎、岩澤史雄、柴田淳それに今は亡き明石勤たちの姿が蘇えってきた。彼等は俺たち14期の野球部だった奴等だ。お前たちの後輩がこうして甲子園のグランドに立っているのだぞ!
一回が終わり、2回の表が始まる前にいよいよ鳳鳴の校歌が甲子園の空に響き渡る。これを夢みていたのだ!大声で歌おうと思ったが、なぜか声が出ない、その代わり涙だけが出てきやがった。バカヤロウ何やってんだ、横を見たら勝也も尭も同じ顔している。
それにしても鳳鳴の校歌は素晴らしい。後でビデオで見たらNHKのアナウンサーが「“荒城の月”の作詞で有名な土井晩翠の作詞による校歌です」としんみり解説していた。俺がアナウンサーだったらこう付け加えた。「何という格調高い校歌でしょう、将に歴史と伝統を感じさせる類い稀な校歌といっても過言ではないでしょう」。
試合は終わった。勝敗はどっちでも良かった。大変なことが起こったこんな時にやってくれただけで感謝したい気持ちだ。
甲子園は参加校のグッズも沢山売っていた。俺は鳳鳴の名前が入った硬式ボールを買った。そして一緒に応援した14期のみんなに記念のサインをしてもらった。京都の鈴木、新潟の奥山のほか大館の連中、東京からの石井邦夫、平泉元、戸田順也、鈴木圭子、菅原弘志、塚本真人、金原安男、阿部富雄、小倉博明、岡本文雄、竹村健一、それに一緒じゃなかったが中村博の名前は俺がサインした。名古屋の上関夫婦もいた。
試合が終わって残念会というわけではなく感謝会とでも言うべき昼食会を道頓堀の脇のさる料理屋でやった。その席には13期の鳳鳴事務局の菅原準一さん、淡路春夫さんそれに何期かわからないが大先輩の石井さんという方も加わった。
終わって帰る時に店主に「また、お越しやす」と言われたので「うん、夏にまた来る」と予約しておいた。
大館組の帰りの特急が5時過ぎだというのでそれまで大阪の町をぶらぶらしようと、“なんば”まで歩いた。途中、小倉屋山本という昆布の老舗の本店があったのでそこで斉藤と浪岡がお土産を買った。勘定を払っていたらそこの主人がでてきて「あんたら、どこから来たんね」と言うので「甲子園から」と言うと「秋田か、惜しかったね、8対7だもんね、よく頑張ったよ」とうれしくなることを言ってくれた。さすが大阪商人は人の心を掴むのがうまいね、たいしたもんだ」といい気持にさせてもらった。
5時に大阪駅で大館のみんなと再会を誓って別れ、一人新大阪から新幹線に乗って帰途についた。京都を過ぎる時には鈴木の歓待に感謝し、車窓に浮かぶ街の灯りの中に夢のような二日間を思い出し、知らず知らず“森吉の峰鳳凰の・・・・・”と口ずさんでいたものだった。
ありがとう鳳鳴、ありがとう14期の仲間たち!!
田村 徹
<平泉 元>
平泉です。遅ればせながら甲子園ミニ報告をお伝えします。
24日は宿泊の有馬温泉(7人)を6時過ぎに出発し、7時半には甲子園に到着、球場前のガード下で1塁アルプススタンド席券を受け取り、後から来るだろう面々を待った。京都の鈴木邸には奥山氏他7名で大宴会の様子、開幕に間に合えばいいがと心配したが、幸い8時半には到着。貸切列車で着いたと言う学生が大勢通り過ぎる。
鳳鳴高校の高橋校長さんをはじめ大舘から安藤夫妻、平泉勝也氏等、又先輩諸氏が大勢こられた。
14期は20名の観戦があったと記憶する。
開場時間となり、皆連れ立って、1塁側のアルプス席へ移動する。
この大会は東日本大震災を思いやり、プラスバンド、笛、太鼓は自粛することになっており、今までとは違った応援体制で臨む事になっている。
席には鳳鳴のマーク入りの帽子とグランドコートをまとった丹波篠山高校の生徒さんが応援協力で200人以上が既に着席していた。我々もその傍に席を決める。開始前にアルプススタンドはほぼ一杯になっていた。2000人はおろうか、想定以上だ。
相手の天理は此方よりも応援席は埋まってない。勘繰りではあるが第一戦は勝って当たり前としての対処か。何としても一泡吹かせたい感情に駆られる。なんやかんやで9時となり、プレイ・ボールのサイレンが鳴り渡り、両雄ホームグランドに整列、一礼の元、守備、打席の定位置に付く。
今回は第83回春の選抜大会である。24日の第一試合(9:00開始)に母校の初(部創設113年目)の対戦となったのは、春の大会は21度目の奈良の「天理」である。
試合としては双方先ず先ずの滑り出しで、相手投手の乱投でデットボールが多く毎回のように塁に出る、期待感で総立ちで声を嗄らして応援するも、残念ながらいま一つ、最後の1ヒットが出ず、0を重ねることとなった。
3回には、センターに上がったライナー性のフライをレフトは余裕で前進したものの、ボールは甲子園特有の浜風にあおられ、無常にもレフトの頭上を越え大量得点を許してしまいました。又守備のもたつきも見え、半年間も土での練習が出来なかったハンデが見て取れ、此れは止む無しと理解した。
その後は2番手投手が1点を許すも他は0を重ねる活躍である。特に3番手の投手は小粒ながら身体全体を使い腕の振りも十分で安定した投球、安心して観戦しました。相手も背番号1の主戦投手を投入し、140kmをこえる速さを誇示しましたが、球が上ずり、乱投気味、わが打線もスピードには負けず毎回ヒットを打ち、大いに沸かせましたが、最後の1打がなんとしても出ず、何度も涙を呑みました。
しかし、8―0でしたが3回の7点を除けば、他の回は殆ど互角です。
鳳鳴は3人の投手を要しており、それぞれの持ち味があり、持ち場をきちんと決めれば、長丁場も戦えますね。
夏の大会は期待したいものです。
それと今後は、外野手の走りこみ(ボールを捕ろうとする執念)、内野手の連携プレーの完成度を上げたら、次はもっと楽に出場の機会に恵まれると思いました。
いずれにしても、初出場として悔いの無い対戦だったと思います。
選手諸君には“113年の夢を実現してくれて有難う!”と伝えたいものです。
いま一つ、対戦の間に私の斜め後ろに座った、丹波篠山鳳鳴校の、先生と思しき人が、鳳鳴の校歌を紙に音付化、我々に次回は皆さんの校歌をプラスバンドで演奏いたします、是非夏にもう一度来て頂きたいと言われ、出だしの部分を歌ってくれたのには驚き、感動いたしました。友情応援して頂いた大勢の篠山鳳鳴の皆さんにも感謝を言いたいですね。
以上 、簡単ですが私の感想です。
また、石井さんが詳しい内容でメールをしておりますので、ご覧下さい。
2011年3月26日(土)
<千葉 平泉(14期)>
<石井邦夫>
同期の皆さんへ
甲子園の報告と感想を記します。
結果は大敗の形でしたが、見応えがあって内容のあるとても素晴らしい試合でした。
座席が高校生応援団の隣でしたので攻撃のときは、高校生と一緒に立ちあがって結構忙しかったですが何よりも我が14期は17人もが陣取り、小倉、鈴木両君の的確な応援を合いの手に聞きつつ一喜一憂しながらも充実した時間をあっというまにすごしました。
応援団には連携校の地元篠山鳳鳴高校生徒が200人参加されて、2000人を超えていたのではないかと思います。ヒットも7本(天理は9本で8点)と打ち、魔の3回を除けばチャンスを何度もつくってくれてかなり良い戦いをしてくれました。
試合後は新神戸で小林(旧制諏訪)怜子さんを囲んで13人もの大昼食会を楽しみました。私は4人で早めに出ましたが、残った9人はまた盛り上がったのではと思います。結局14期の参加者は20人にもなり、その中で紅2点は鈴木圭子さんと上関昶子さんでした。
ご事情で参加できなかった皆さんが居られると聞いていますが、十四期の本当にすばらしい結束力と改めて感心しました。
23日の前夜祭は、京都の鈴木邸では大館4名、新潟1名、東京1名の7人で鈴木君の手料理で(奥さんはお孫さんのところで不在でした)大いに盛り上がったようですが、私は有馬温泉に行き、7名で温泉と語らいを楽しみました。岡本君と菊池君はバスで大変だったようですが他の諸君もそれぞれ楽しい夕べを過ごしたようです。
竹村健一君が言っていましたが、本当に夢のような時間をすごさせて貰った2日間でした。高揚感の所為でしょうが、改めて母校がまた一段と伸びるような期待感をもちました。夏も可能性は十分あると思います。
以上報告です。参加された他の皆さんからも付け加えて紹介して頂ければ一層どのような甲子園であったかが纏まって、充実すると期待します。
では・・・
2011年3月25日(金)
石 井 邦 夫 〒332-0015 川口市川口1-5-14-1007
TEL: 048-223-6902 e-mail: isi2044@sun.gmobb.jp
<置塩ヒロミ>
甲子園へいらした皆様
テレビで応援しながら、やっぱり甲子園まで行くべきだったかな、と残念に思いました。万難を排して行かれた皆様に心から感謝します。
校歌が流れたときは一緒に歌いながら涙が出ました。
今日は会計の仕事で税理士さんと一緒でしたので全部を、見ることはできませんでしたが、ちょくちょく席を外して見ました。
こんな時期に、東北から行ってよく頑張りましたよね。
選手の皆さん、関係者の皆様に御礼を申し上げたいと思います。
テレビ画面で、「大館鳳鳴」の文字を見た感動は一生忘れません。
皆様本当にありがとうございました。
2011年3月24日(木)e-mailにて 置塩 ヒロミ
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